ビルマ方面の海軍部隊は昭和18年10月1日編成され、昭和19年1月1日第一三特別根拠地隊となり、さらに同年12月15日第一三根拠地帯となった。
一三根は第一南遣艦隊に属し、その編成は司令部(ラングーン)第一二(ラングーン)第一三(タンガップ)第一七(メルギー)の各警備隊及び第一二通信隊から成り、沿岸の防備警戒、泊地警備、海上交通保護、掃海、機雷敷設などに当たっていた。水上兵力は中型砲艇、特設掃海艇及び大発併せて十数隻で、ほかに第一南遣艦隊付属の第二一魚雷艦隊の魚雷艇が12隻あるのみだった。
インパール作戦に敗れた陸軍第十五軍は、昭和19年7月から後退を開始した。一二警と一三警は陸行と水行に分れて転進することとなったが、敵の追及激しく部隊の損耗は甚大であった。特に陸行部隊は英印軍及び反乱のビルマ軍と各所において交戦し、隊司令以下次々と戦死し、当初一二警が200余名、一三警が680名余を有した兵力もそのうちシッタン河を渡って生還し得たのは一二警、一三警ともそれぞれ4名に過ぎなかった。
碑は昭和58年4月10日建立された。
一三根は第一南遣艦隊に属し、その編成は司令部(ラングーン)第一二(ラングーン)第一三(タンガップ)第一七(メルギー)の各警備隊及び第一二通信隊から成り、沿岸の防備警戒、泊地警備、海上交通保護、掃海、機雷敷設などに当たっていた。水上兵力は中型砲艇、特設掃海艇及び大発併せて十数隻で、ほかに第一南遣艦隊付属の第二一魚雷艦隊の魚雷艇が12隻あるのみだった。
インパール作戦に敗れた陸軍第十五軍は、昭和19年7月から後退を開始した。一二警と一三警は陸行と水行に分れて転進することとなったが、敵の追及激しく部隊の損耗は甚大であった。特に陸行部隊は英印軍及び反乱のビルマ軍と各所において交戦し、隊司令以下次々と戦死し、当初一二警が200余名、一三警が680名余を有した兵力もそのうちシッタン河を渡って生還し得たのは一二警、一三警ともそれぞれ4名に過ぎなかった。
碑は昭和58年4月10日建立された。